登入不動産屋の建物の前に貼り出されている物件を眺めながら、紗英は思わずため息をついていた。
そもそも、この地域は都心に近く交通の便が良い上に人気がある。
同じエリアで住める場所を探そうとすると、恐ろしく家賃が高い。
かといって、家賃の安い地方へ引っ越せば、フリーでフラワーデザインの仕事を受けるのも難しくなる。
いっそ、どこか遠くへ引っ越して、花屋にでも就職するべきか。
だったら先にすることは職探しかもしれない。
貼られた物件のガラスの向こうから、うなだれている自分を見つめている不動産屋の受付の女性が見えた。
ここまで来たけれど、中に入って話をする元気は出なかった。
部屋に戻ろうと振り返ると、背後に人が立っていて、ぶつかりそうになった。
「あ、すみません」
横に避けようと体をずらすと、目の前の男性の足も同じように動く。
紗英は眉間に皺を寄せた。
これは、最近流行りの“ぶつかりオジサン”とかいう迷惑行為なのだろうか。
ついていない時にはとことんついていないらしい。
小さく息を吐いて、顔を上げて睨みつけた時、目の前の男性がオジサンというにはいささか若いということに気づく。
そして、彼をどこかで見たような気がした。
「すみませんが、どいてもらえますか」
あえてキツイ口調でそう言うと、相手に鋭い視線を向けた。
しかし、目の前の男は、そんなことなどまるで気にした様子もなく自分の前に立っている。
「あの!――」
「水城紗英さんですよね」
低い声で唐突に自分の名前を告げられ、胸の奥がひやりと冷えて、強気に出ていた気持ちが一気に萎む。
また、雅人の関係の誰かなのだろうか。
今度はなんなのだろう。
弁護士? 警察?
見覚えがあると思った。
目の前の男は、雅人の葬儀の日に会場の入り口付近から、惨めに雨に打たれていた自分を見ていた人物だ。
自分が身に覚えのない罪で社会的信用をすべて奪われるという、最悪のシナリオが頭に浮かび、血の気が引く。
「ど……どちらさまですか」
できれば自分が怯えているようには、見せたくなかった。
弱気になればそこを突かれる。
雅人に出会う前は、そんな風に肩に力を入れて生きていた。
それなのに、どこで間違えたんだろう。
一瞬、そんな後悔が胸に広がる。
一呼吸おいて目の前の男が口を開いた。
「水城紗英さん。俺は、ヴァレストラの副社長をしている高槻怜司です。雅人の兄です」
紗英は愕然とした。
雅人から母親違いの義兄が会社の副社長をしている、というのは聞いていた。
『正妻の息子だってだけで兄が会社を継ぐんだ。どうも彼はあちこちで不正なやりとりをしているようで、俺としては彼に会社を取られたくないんだよ』
義兄は、会社の権利を使って好き勝手をしている。自分はそれを正したいのだ、とそう息巻いていた。
葬儀の家族挨拶にも彼は並んでいなった。雅人を家族とは認めていなかったということだろうか。
「ちょっと話がしたいんだが、時間を貰えるだろうか」
丁寧な口調ではあるが、その言葉には有無を言わさぬ雰囲気があった。
「……ご存じかと思いますが、私はすぐに引っ越しをしなくてはならないので不動産めぐりに忙しいんです。またの機会にお願いします」
入るつもりはなかったが、彼を振り切るつもりで目の前の不動産屋の中へと入った。
すると、怜司も何食わぬ顔で紗英の後ろをついて入ってくる。
「ちょっと、あなたね――」
「しゃ、社長!」
店内の最奥にある机に座っていた、ふくよかな体形の男性が、椅子を倒さんばかりに慌てて飛び出してきた。
「このような小さな支店にどのようなご用で!」
出て来た男性は、焦ったように汗を拭きながら、勢いよく紗英の後ろの男に話しかけている。
「ああ。私の知り合いの女性が部屋を探していてね。付き添いで来たんだ。プライベートだよ」
汗を拭いていた男性は、初めて紗英がいることに気づいたかのようにこちらを見て、上から下まで品定めをするように舐めまわした。
「すまないが、いくつか適当な物件の情報を出してもらえるかな。それから奥の商談ルームを貸してくれ」
汗を拭う男性に促されて、奥の部屋へと向かう。
紗英は、商談用の応接室らしき部屋のドアが閉まる音で我に返った。
「しゃ、社長って……」
「ああ、ここは俺が個人的に経営している不動産関係の会社の営業所の一つなんだ」
黒いソファに座ると、男は長い足を組んで呆然と立っている紗英の方を見た。
「座らないのか?」
そう言われても、なんだか彼の威圧的な態度に素直に体が動かない。
どうするべきかと思っていると、ガチャリとドアが開き、さっき外から眺めていた時に目の合った女性が、お茶といくつか資料の入ったファイルを持って入ってきた。
その彼女が、立ったままの紗英に不審げな視線を送るので、仕方なくテーブルを挟んで男の前に座る。
女性が部屋を出て行くと、目の前の男――怜司は肘をついてこちらに身を乗り出すようにして話し始めた。
「水城紗英さん。先日、うちの社の顧問弁護士が送った書類には目を通してもらったかな」
紗英の脳裏に、さっき部屋で見ていたパソコン画面の中の送金記録が浮かんだ。
じわりと背中に冷たい汗が落ちる。
「は、拝見しました。実は、まったく身に覚えのない話で――」
「まあ、皆そう言いますよね」
こうやって人は罪を着せられるのだろうか。
目の前の男はまったくこちらの意見を聞いてくれそうには見えない。
「あなたは、どこまで雅人のことを知っていますか」
唐突な彼のその言葉に、紗英は息を飲んだ。
どこまで?
ここ数日で、何もかも知っていると思っていた雅人のことを、何一つ知らなかったと思い知らされた。
「あなたの口座に入った会社の金が、その後どこへ流れたのか知っていますか?」
静かな口調だが、絶対に逃がさないという捕食者的な強さを感じる。
紗英は、ごくりと唾を飲みこんだ。
「私の口座を通して、金銭が流れていることは、送っていただいた書類を見て初めて知りました」
話をしている間も目の前の彼は、じっとこちらを見つめたまま、まったく視線を動かさない。
あまりの緊張に紗英は思わず目線を外したくて仕方がなかった。
だが、ここで視線を逃したら、きっと良くない方向に話を持っていかれてしまう。
紗英は、緊張でどうにかなりそうな心を必死で立て直して、彼と目線を合わせ続けた。
「私には身に覚えのないことです」
そう紗英が言い切ると、部屋には沈黙が落ちた。
しばらくして、じっと紗英を見つめていた怜司はふっと口元を弓なりにすると、体を起こし目の前の冷めたお茶を一口飲んだ。
――笑った?
「引っ越しするんですか?」
「はい?」
「部屋を探していると言ってたでしょう?」
「あ、ああ、ええと、はい」
「逃げるんですか?」
その言葉に、紗英の目の奥がかっと赤くなった。
逃げる?何を知っててこの男はそんなことを。
「出て行けと言われたからですよ」
人生で一度も出したことのないような低い声が、紗英の腹の奥から出ていた。
「夫が死んで、葬儀に行ったら自分は妻ではないと言われ、住んでいた部屋は自分のものではなくなり、あげくによくわからない金が自分の口座に入ったり出ていったりして犯罪者扱いされて。逃げられるものなら、全部放り投げて逃げたいに決まってるでしょう!」
男の目を見つめながら、怒りとも苦悩ともしれない思いを吐き出していた。
「でも……何も、何もわからないままじゃ、どこにも行けやしないわよ」
熱くなった目の奥から、噴き出すように涙が出そうになったが、紗英は必死でそれを堪えていた。
泣いて弱いところをこの男の前で見せたくない。
拳を震わせながら、必死で自分の気持ちと戦っている紗英を静かに見ていた男は、再び肘をついてこちらに身を寄せてきた。
「そうですね。我が社としても、今あなたにどこかに行かれては困る。俺自身としてもね」
そう言うと、怜司は仕立てのいいジャケットの内ポケットから封筒を取り出して机に置いた。
「私と取引をしませんか」
「取引……ですか?」
目の前の男性は、社会的地位の高い人特有の落ち着いた表情を浮かべている。
何を考えているかわからない表情。
「あなたは、今、住む場所を探しているんですよね」
「……そうですね。2週間後には明け渡しをするよう要求されていますので」
「俺は、会社の金があなたの口座を通ってどこへ消えたのか知る権利がある。そして、それを取り戻す責任も」
紗英は、怜司が何を言おうとしているのかわからないまま、ただ黙って彼の話を聞いていた。
「そのためには、あなたを見張り、動向を知る必要がある」
彼はそう言いながら、机に置いた封筒から三つ折りになった紙を取り出した。
広げられたその薄緑色に線の引かれた用紙に、紗英は見覚えがあった。
過去に喜びに胸をいっぱいにして、ダイニングテーブルで自分の名前を書いた。
それは、婚姻届だった。
帰宅すると、入れ違いにハウスキーパーの田所がちょうどエプロンを外し、仕事を終えて帰ろうとしていた。「お帰りなさいませ。今日はお仕事、いかがでしたか?」「ええ。順調でした」「それはよろしゅうございました。お仕事に出られるようになってから、表情が明るくなられましたもの」田所の言葉に、紗英は小さく笑った。実際、仕事は順調だった。担当者とも打ち解け、デザイン案も少しずつ形になっている。それなのに、どうしてこんなに気持ちが重いのだろう。――弟から兄だなんて。三枝の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。考えたことがなかったわけではない。世間からどう見られるかも、怜司にどれほど迷惑をかけているかも、自分なりに理解しているつもりだった。ただ、面と向かって言われると、何一つ反論できず、言われた言葉は自分の中で反芻されるばかりだった。雅人を愛していた。結婚していると信じ、二年間、妻として暮らしていた。その雅人が亡くなり、今は怜司の妻になっている。しかも最近は、怜司の帰りを待つことさえ楽しみになっていた。契約で始まった結婚なのに。そんな自分が、少し怖かった。玄関の扉が開く音がした。「ただいま」いつもより早い怜司の帰宅だった。「おかえりなさい」紗英は立ち上がり、笑顔を作った。「今日は仕事、どうでした?」「順調でした。試作も、担当の方に気に入っていただけたんです」「それはよかった」怜司は微笑んだが、すぐに紗英の顔を覗き込んだ。「……何かありましたか?」「え?」「少し疲れているように見える」紗英は慌てて首を振った。「今日はずっと立って作業をしていたので、そのせいだと思います」「そうですか。あまり無理はしないでくださいね」そう言って、怜司はネクタイを緩めた。
ホテルのロビーに、色とりどりの花が並べられていた。「こちらの花器でしたら、もう少し枝物を減らした方が、奥のソファからも見通しがよくなると思います」紗英が提案すると、ホテルの担当者が頷いた。「確かに。正面からだと華やかなんですけど、横から見ると少し大きいですね」「そうなんです。待ち合わせに利用されるお客様もいらっしゃいますから、視界を遮らない方がいいと思って」紗英は、用意していた花材を少し入れ替えた。今日は、最初に提出したデザイン案をもとに、実際の花器を使った試作を行っている。何度か打ち合わせを重ねるうちに、ホテルの担当者とも気軽に意見を交わせるようになっていた。「やっぱり現場で見てもらうと違いますね」「ありがとうございます。実際に置いてみないとわからないことも多いですから」「この前のラウンジの案も、責任者がすごく気に入ってました。次の打ち合わせもよろしくお願いしますね」「こちらこそ、よろしくお願いします」自然と笑顔になった。仕事を失ったときには、もう二度とこんなふうに花に触れられないかもしれないと思った。それが今は、ホテルの担当者と意見を交わしながら、一つの空間を作り上げている。積み上げてきた実績も仕事も、一度は失ったからこそ、改めて思う。やっぱり、私はこの仕事が好きだ。花で空間を彩り、そこで過ごす誰かの時間をよりよいものにする。そんな仕事を、また始められたことが嬉しかった。◇◇◇作業を終え、紗英が資料を片づけていると、背後から声をかけられた。「水城紗英さん、ですよね?」振り返ると、見覚えのない女性が立っていた。四十歳前後だろうか。きっちりとまとめた髪に、上品な紺色のスーツがよく似合っている。「あ、はい。そうですが」「私、三枝理香と申します。本社の営業企画部におります」差し出された名刺を受け取ると、女性は穏やかな笑みを浮かべた。「以前は
「澄香さん。あなた、ずいぶん上手く仕事をこなしているそうじゃない」澄香は、ダイニングの扉から入ってきた美津子の姿に、驚く。彼女が、夕食の席にやってくることなど、ほとんどない。「はい。皆さまのお気遣いもあって快適にお仕事をさせていただいています」「悠真のためにも、あなたが会社で認められておくのはいいことよ」美津子は、ダイニングテーブルで食事をしている、悠真の方に視線を走らせる。「あなたの仕事については、黒瀬さんがしっかりサポートをしてくださるそうよ。悠真が将来会社に関わるときのためにも、今のうちから内情を知っておくのは良いことだわ」澄香は黙って頷いた。さっきまで、食事をしながら、楽しそうに友達の話をしていた悠真は、美津子の姿にすっかり黙り込んでしまった。「それより、怜司さんがあの女のせいで、会社を引っ掻きまわしているみたいよ」「……そうなのですか?」「雅人が築いた取引関係まで疑うようなことをしているそうだわ。まったく、何を考えているのかしら」澄香は、先日黒瀬から聞いた話を思い出した。「まったく。怜司さんもあんな女に振り回されて。目も当てられないわね。育ちが悪いったら――」「お母さま。悠真の前ですから」澄香は、慌てて美津子の話を遮った。「ああ。そうね。悠真。早く自分の部屋で勉強しなさい」悠真は、いつものように小さく「はい」と返事をすると、ダイニングを後にしようとする。「悠真。あとでお部屋にデザートを持って行ってあげるわ」そう声をかけると、悠真は嬉しそうに頷いて階段を上がっていった。美津子は、リビングへ移り、ソファに腰を掛けた。澄香はそこへコーヒーを運んだ。「黒瀬さんがね、怜司さんが過去の契約まで調べ始めたせいで、昔からの取引先にまで迷惑がかかっているって言っていたわ」美津子は、コーヒーを飲みながら、澄香に手で向かい側に座るように促した。「引っ掻き回されているっ
黒瀬は、机の上に置いた資料を忌々しげに睨んでいた。系列ホテルの過去の装花契約について、追加資料の提出を求められている。最初は副社長の妻との直接契約を問題にしていたはずなのに、いつの間にか調査の範囲が広がっていた。「なぜ、こんな昔の案件まで調べる必要があるんだ」向かいに立つ部下は、答えに困ったように視線を落とした。「経理からの依頼です。今回の契約との比較資料にするそうで、系列ホテルで共通する取引先についても確認するようにと」「比較なら、過去一年分で十分だろう」「それが、雅人専務の時代まで遡るようにという話でして。新しく契約されたフラワーデザイナーの信用問題に関係するということだそうで……」黒瀬は、思わず舌打ちをしそうになった。新しいフラワーデザイナーとは、雅人の愛人で、今は副社長の妻となった女のことだ。――まったく忌々しいあの女は、雅人の死によって、妻の座も、仕事も、家もすべてを奪われて、消えてしまう予定だった。それがどうしてこんなことになったのか。――金づるだった雅人が死んだら、その兄に鞍替えとは。まったく強かな女だ高槻の家で出会った時には、しおらしくして扱いやすそうに見えたが、結局、あのあと、女から連絡は来なかった。副社長側にすっかり取り込まれたようだ。――遡って、契約を洗い出すなどその中には、今さら掘り返されては困るものがいくつもある。「具体的には、どこまで調べているんだ?」「系列ホテルのうち、雅人専務が直接関わられた案件を中心に、契約書と請求書、それから納品記録の照合を進めているそうです」「納品記録まで?」黒瀬は思わず顔を上げた。「はい。特に海外から調達した花材については、仕入れ先や搬入記録まで確認するようにと」「……ずいぶん細かいことをするんだな」黒瀬は、苛立ちを隠せなかった。「わかった。こちらでも確認しておく。資料は勝手に提出するな」部下が退出すると、黒瀬は携帯電話を取り出した。連絡先を開き、しばらく指を止める。そして、一件の番号を選んだ。「……私だ。少し確認したいことがある」電話の相手は、雅人と取引のあった業者の責任者だった。「過去の請求書について問い合わせが来ていないか?」『ええ。ホテル側から、納品記録を確認したいと連絡がありましたが』「何と答えた?」『古い案件ですから、資料を探して
夕食を終えたあと、怜司が珍しくノートパソコンを持ってリビングへやってきた。「紗英。少し仕事のことで相談したいんだけど、いいかな?」名前で呼ぶようになってから、怜司の接し方は少しくだけたものに変化していた。その距離感に紗英は、まだ少し照れがある。「はい。私でよければ」隣のソファに腰を下ろした怜司が、パソコンを開く。「澄香さんからの話は聞きました。黒瀬が接触してきたそうですね」「はい。澄香さんには、あまり無理をしないでほしいんですけど……」「そうですね。高槻に家にいると、彼女の周囲に味方は少ないでしょうから。せいぜい、黒瀬に話を合わせておく程度で、深入りしないように彼女に伝えてください」怜司はそう言って、画面を紗英の方へ向けた。「実は、過去の装花契約について調べているんですが、気になるものがあるんです」表示されていたのは、請求書をまとめた資料だった。「これは……ホテルの装花費用ですか?」「雅人が関わっていた件です。契約上、かなり高額な花材が納品されたことになっているんですが、実際の納品記録と一致しない」紗英は画面を覗き込んだ。ホテル名、施工時期、花材の種類、数量。馴染みのある項目が並んでいる。「少し見せていただいてもいいですか?」「もちろん」そう言うと、怜司は、身体を寄せて見えやすいようにPCを紗英の前に出した。紗英はパソコンを自分の方へ引き寄せ、請求明細を読み始めた。「……あれ?」最初に気になったのは、花材の数量だった。「このホテル、改装前のロビーですよね?」「そうです。今から二年ほど前の案件ですね」「私、ここに行ったことがあります。以前、装花の打ち合わせで伺ったんです」紗英は、記憶の中のロビーを思い浮かべた。広い吹き抜けが特徴的なホテルだったが、正面には
黒瀬の背中を見送りながら、澄香は小さく息を吐いた。彼は、こんな陳腐な芝居でも、こちらが素直に信じると思っているのだろう。今までの自分なら、そうだったかもしれない。誰かがこうしろ、と命令すれば、そのとおりにしていたはずだ。しかし、今は違う。少なくとも、悠真のこれからについては、自分が慎重に考え、絶対に周囲に流されることのないようにしないといけない。澄香は、携帯電話を取り出し、さきほどの黒瀬とのやりとりについて、紗英にメッセージを送った。ほどなくして返事が届いた。『あまり無理をして、そちら側を探らなくてもいいですからね。危ない目に合わないようにしてください』澄香は、少し考えてから返信した。『大丈夫です。私、演技は上手いんですよ』すぐに返事が返ってくる。『澄香さんに何かあったら、大変ですから。くれぐれも注意してください。この件は怜司さんにも伝えておきます』返事のスタンプを送り終えると、澄香はもう一度、仕事の資料を手に取った。◇◇◇「黒瀬が、澄香さんに?」佐伯の報告を受け、怜司は眉を上げた。「はい。インテリアデザイン部門で、しばらくお話しされていたそうです」「なるほどな。澄香さんなら、簡単に言いくるめられると思ったわけか」怜司は口元を緩めた。黒瀬が澄香を利用し、紗英との対立構造を作り、怜司の評判にも傷をつけようとしていることは容易に想像できた。ただ、黒瀬は知らない。澄香と紗英が、すでに互いを信頼していることを。「それから、副社長。過去の装花契約について、追加の報告がございます」佐伯は別の資料を机に置いた。「黒瀬部長が承認していた案件のうち、ホテル側の納品記録と請求内容が一致しないものが、ほかにも見つかりました」「同じ取引先か?」「はい。複数の系列ホテルで利用されています。現在確認できたものだけで、請求額は約八千万円になります」怜







