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第9話 亡夫の兄

作者: けもこ
last update publish date: 2026-08-29 23:42:25

不動産屋の建物の前に貼り出されている物件を眺めながら、紗英は思わずため息をついていた。

そもそも、この地域は都心に近く交通の便が良い上に人気がある。

同じエリアで住める場所を探そうとすると、恐ろしく家賃が高い。

かといって、家賃の安い地方へ引っ越せば、フリーでフラワーデザインの仕事を受けるのも難しくなる。

いっそ、どこか遠くへ引っ越して、花屋にでも就職するべきか。

だったら先にすることは職探しかもしれない。

貼られた物件のガラスの向こうから、うなだれている自分を見つめている不動産屋の受付の女性が見えた。

ここまで来たけれど、中に入って話をする元気は出なかった。

部屋に戻ろうと振り返ると、背後に人が立っていて、ぶつかりそうになった。

「あ、すみません」

横に避けようと体をずらすと、目の前の男性の足も同じように動く。

紗英は眉間に皺を寄せた。

これは、最近流行りの“ぶつかりオジサン”とかいう迷惑行為なのだろうか。

ついていない時にはとことんついていないらしい。

小さく息を吐いて、顔を上げて睨みつけた時、目の前の男性がオジサンというにはいささか若いということに気づく。

そして、彼をどこかで見たような気がした。

「すみませんが、どいてもらえますか」

あえてキツイ口調でそう言うと、相手に鋭い視線を向けた。

しかし、目の前の男は、そんなことなどまるで気にした様子もなく自分の前に立っている。

「あの!――」

「水城紗英さんですよね」

低い声で唐突に自分の名前を告げられ、胸の奥がひやりと冷えて、強気に出ていた気持ちが一気に萎む。

また、雅人の関係の誰かなのだろうか。

今度はなんなのだろう。

弁護士? 警察?

見覚えがあると思った。

目の前の男は、雅人の葬儀の日に会場の入り口付近から、惨めに雨に打たれていた自分を見ていた人物だ。

自分が身に覚えのない罪で社会的信用をすべて奪われるという、最悪のシナリオが頭に浮かび、血の気が引く。

「ど……どちらさまですか」

できれば自分が怯えているようには、見せたくなかった。

弱気になればそこを突かれる。

雅人に出会う前は、そんな風に肩に力を入れて生きていた。

それなのに、どこで間違えたんだろう。

一瞬、そんな後悔が胸に広がる。

一呼吸おいて目の前の男が口を開いた。

「水城紗英さん。俺は、ヴァレストラの副社長をしている高槻怜司です。雅人の兄です」

紗英は愕然とした。

雅人から母親違いの義兄が会社の副社長をしている、というのは聞いていた。

『正妻の息子だってだけで兄が会社を継ぐんだ。どうも彼はあちこちで不正なやりとりをしているようで、俺としては彼に会社を取られたくないんだよ』

義兄は、会社の権利を使って好き勝手をしている。自分はそれを正したいのだ、とそう息巻いていた。

葬儀の家族挨拶にも彼は並んでいなった。雅人を家族とは認めていなかったということだろうか。

「ちょっと話がしたいんだが、時間を貰えるだろうか」

丁寧な口調ではあるが、その言葉には有無を言わさぬ雰囲気があった。

「……ご存じかと思いますが、私はすぐに引っ越しをしなくてはならないので不動産めぐりに忙しいんです。またの機会にお願いします」

入るつもりはなかったが、彼を振り切るつもりで目の前の不動産屋の中へと入った。

すると、怜司も何食わぬ顔で紗英の後ろをついて入ってくる。

「ちょっと、あなたね――」

「しゃ、社長!」

店内の最奥にある机に座っていた、ふくよかな体形の男性が、椅子を倒さんばかりに慌てて飛び出してきた。

「このような小さな支店にどのようなご用で!」

出て来た男性は、焦ったように汗を拭きながら、勢いよく紗英の後ろの男に話しかけている。

「ああ。私の知り合いの女性が部屋を探していてね。付き添いで来たんだ。プライベートだよ」

汗を拭いていた男性は、初めて紗英がいることに気づいたかのようにこちらを見て、上から下まで品定めをするように舐めまわした。

「すまないが、いくつか適当な物件の情報を出してもらえるかな。それから奥の商談ルームを貸してくれ」

汗を拭う男性に促されて、奥の部屋へと向かう。

紗英は、商談用の応接室らしき部屋のドアが閉まる音で我に返った。

「しゃ、社長って……」

「ああ、ここは俺が個人的に経営している不動産関係の会社の営業所の一つなんだ」

黒いソファに座ると、男は長い足を組んで呆然と立っている紗英の方を見た。

「座らないのか?」

そう言われても、なんだか彼の威圧的な態度に素直に体が動かない。

どうするべきかと思っていると、ガチャリとドアが開き、さっき外から眺めていた時に目の合った女性が、お茶といくつか資料の入ったファイルを持って入ってきた。

その彼女が、立ったままの紗英に不審げな視線を送るので、仕方なくテーブルを挟んで男の前に座る。

女性が部屋を出て行くと、目の前の男――怜司は肘をついてこちらに身を乗り出すようにして話し始めた。

「水城紗英さん。先日、うちの社の顧問弁護士が送った書類には目を通してもらったかな」

紗英の脳裏に、さっき部屋で見ていたパソコン画面の中の送金記録が浮かんだ。

じわりと背中に冷たい汗が落ちる。

「は、拝見しました。実は、まったく身に覚えのない話で――」

「まあ、皆そう言いますよね」

こうやって人は罪を着せられるのだろうか。

目の前の男はまったくこちらの意見を聞いてくれそうには見えない。

「あなたは、どこまで雅人のことを知っていますか」

唐突な彼のその言葉に、紗英は息を飲んだ。

どこまで?

ここ数日で、何もかも知っていると思っていた雅人のことを、何一つ知らなかったと思い知らされた。

「あなたの口座に入った会社の金が、その後どこへ流れたのか知っていますか?」

静かな口調だが、絶対に逃がさないという捕食者的な強さを感じる。

紗英は、ごくりと唾を飲みこんだ。

「私の口座を通して、金銭が流れていることは、送っていただいた書類を見て初めて知りました」

話をしている間も目の前の彼は、じっとこちらを見つめたまま、まったく視線を動かさない。

あまりの緊張に紗英は思わず目線を外したくて仕方がなかった。

だが、ここで視線を逃したら、きっと良くない方向に話を持っていかれてしまう。

紗英は、緊張でどうにかなりそうな心を必死で立て直して、彼と目線を合わせ続けた。

「私には身に覚えのないことです」

そう紗英が言い切ると、部屋には沈黙が落ちた。

しばらくして、じっと紗英を見つめていた怜司はふっと口元を弓なりにすると、体を起こし目の前の冷めたお茶を一口飲んだ。

――笑った?

「引っ越しするんですか?」

「はい?」

「部屋を探していると言ってたでしょう?」

「あ、ああ、ええと、はい」

「逃げるんですか?」

その言葉に、紗英の目の奥がかっと赤くなった。

逃げる?何を知っててこの男はそんなことを。

「出て行けと言われたからですよ」

人生で一度も出したことのないような低い声が、紗英の腹の奥から出ていた。

「夫が死んで、葬儀に行ったら自分は妻ではないと言われ、住んでいた部屋は自分のものではなくなり、あげくによくわからない金が自分の口座に入ったり出ていったりして犯罪者扱いされて。逃げられるものなら、全部放り投げて逃げたいに決まってるでしょう!」

男の目を見つめながら、怒りとも苦悩ともしれない思いを吐き出していた。

「でも……何も、何もわからないままじゃ、どこにも行けやしないわよ」

熱くなった目の奥から、噴き出すように涙が出そうになったが、紗英は必死でそれを堪えていた。

泣いて弱いところをこの男の前で見せたくない。

拳を震わせながら、必死で自分の気持ちと戦っている紗英を静かに見ていた男は、再び肘をついてこちらに身を寄せてきた。

「そうですね。我が社としても、今あなたにどこかに行かれては困る。俺自身としてもね」

そう言うと、怜司は仕立てのいいジャケットの内ポケットから封筒を取り出して机に置いた。

「私と取引をしませんか」

「取引……ですか?」

目の前の男性は、社会的地位の高い人特有の落ち着いた表情を浮かべている。

何を考えているかわからない表情。

「あなたは、今、住む場所を探しているんですよね」

「……そうですね。2週間後には明け渡しをするよう要求されていますので」

「俺は、会社の金があなたの口座を通ってどこへ消えたのか知る権利がある。そして、それを取り戻す責任も」

紗英は、怜司が何を言おうとしているのかわからないまま、ただ黙って彼の話を聞いていた。

「そのためには、あなたを見張り、動向を知る必要がある」

彼はそう言いながら、机に置いた封筒から三つ折りになった紙を取り出した。

広げられたその薄緑色に線の引かれた用紙に、紗英は見覚えがあった。

過去に喜びに胸をいっぱいにして、ダイニングテーブルで自分の名前を書いた。

それは、婚姻届だった。

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